dZi Beads  story  3

 

 

余白を残す。

 

 

 

 

 

絵画の世界ではよく見られる手法です。

 

 

 

 

 

本来、人間は調和のとれたものに安心感を覚え、

 

当然そこに向かっていくことが望まれるわけですが

 

それを敢えてしないことの意味というのはそこに何かがあるからです。

 

 

 

 

 

絵画の世界であれば

 

ある種の不安感や緊張感への美学みたいなものがあるでしょうが、

 

ジーはそうした個々の作家の魂が宿る世界ではなく、

 

この余白は違う意味を持っていそうです。

 

 

 

 

 

この余白への探究にはいくつかのアプローチがあると思いますが、

 

今回はその中から最も可能性の高い答えとさらにもうひとつのご提案してみたいと思いますので、

 

 

みなさんも色々と思いを広げてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

通常であれば、ご存知のように石の中央にこの独特の文様が描かれます。

 

近現代ならまだしも、

 

古代の、しかも護符であるジーに極端な感情が宿ることはやや考えずらい。

 

しかもチョンジーというおそらく初期の作ならなおさらです。

 

 

 

それではなぜ・・・

 

 

 

そうです。

その答えは「眼」の存在です。

 

 

 

お写真ではわからないと思いますが、

 

このジーは光を強くあてますと、

 

クリスタルを内包する大きな眼が浮かんできます。

 

その眼の位置は当然、「余白」にあります。

 

 

 

ブログ等では何度もお話をしてきましたが、

 

文様がのれば何でもよかったのではなく、

 

古の人は石選びをとても大事にしていたということがこのことからも明確な意思として感じ取れます。

 

ですから、わざわざ通常の「型」をくずしてまで描いた。

 

これがこのジーの現在の姿となった答えではないかと思います。

 

 

 

そしてもちろん忘れてならないのは水晶への文様のアプローチです。

 

何度もお伝えしてきていますように、

 

こういした水晶質に文様を描くことは非常に難しいわけです。

 

当然、それは当時の職人もしっていたわけですね。

 

ですからそこを外す。

 

外すのならなぜその石を選ぶのか。

 

それは・・・

 

となるわけです。

 

 

 

 

 

こうした古の思考は

 

ルックミを見れば一目瞭然ですが、

 

こうしてジーを見ることで、

 

当時の人々が何を大事にしていたのかということを

 

さらに、そしてより鮮明に描くことができるようになります。

 

 

 

 

 

 

 

さて、

 

最初に触れましたもう一つですが、

 

これはおもしろい視点だと思いますのでちょっと触れてみたいと思います。

 

 

 

先にお話ししたように

 

古代の人が、ジーに余白を遊ぶ余裕はありません。

 

 

 

例え文様がのらなくとも

 

そこに「意思」として

 

その行為に及ぶことも、

 

過去のジービーズを見ればわかってきます。

 

 

 

 

 

そういった視点に立ち、

 

さらにバランスをとるという思考が強ければどうするか。

 

それはこの石の隣を想像してみることで見えてくるような気がします。

 

 

 

例えば中央に定番のチョンジー、そしその両側に今回のジーをそれぞれ迎える。

 

こうすれば調和がとれ、余白を意識することはありません。

 

 

 

考えすぎかもしれませんが、

 

実はジーには揃いというのが一つのテーマとしてありまして、

 

かつては6アイ4アイなどというペアがたくさん存在し、

 

チベット人がそれを左右に振り着用していました。

 

 

 

古の頃はどうだったかというのは残念ながら

 

証拠を示す材料はありませんが、

 

そういう可能性も大いにありますので、

 

このあたりもあわせて探ってみるといいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこのジーには続きがあって、

 

眼の反対に縞文様が大きく描かれています。

 

 

 

まるでサコナゴを意識しているかのように・・・・